好きなこと

野球(ヤクルトスワローズfan 1988頃~ 祝2021日本一)
自転車(ANCHORアンカーRCS5EX 2009~/GIANT MTBシングルスピード(自作)2019~/ヨツバサイクル18・16(娘2人))
DIY(ユーロ物置BICYCLECUBE内装工事 /宅内LAN工事 /100Wソーラーパネル据付工事/食器棚リメイク/屋根付タイヤラック作製/事務所看板作成…etc,)
音楽(70’sSoul/Jazz Bossa/90’sHipHop,R&B/House,Techno/80’sJapanesePops....)
RCカー(WILDWILLY2/DF-03 AVANTE MK2/M-05 mini cooper s/TT-02 YARIS WRC)

愛用品

DELL OPTIPLEX9020 Corei7/32GB×1 16GB×1
LetsNote CF-RZ4
HP PROBOOK
HUAWEI P10Lite
Amazon fire7×2
Amazon Alexa EchoDot×2
AirPods
HUAWEI FreeBuds3
Technics SL-1200MK3D/Vestax VMC-002XMu/SONY MDR-Z700(2000~
DENON PMA-1500RⅡ(2003~
KEF Q300W(2011~
カリモク60 ロビーチェア3seat MG(2009~/1seat MG(2006~
ユーロ物置 BICYICLECUBE(2014~
Makita TD111D(2021~
Lihit lab.各種
uni JETSTREAM4+1
FIROFAX clipbook
ScanSnap iX1500
SUBARU EXIGA(2013~
SUBARU PLEO Plus
GOPRO HERO8 Black

行ったことがある場所

北海道(函館、札幌、旭山動物園)
青森(十和田湖、奥入瀬)
岩手(平泉、中尊寺)
秋田(男鹿)
山形(蔵王、銀山温泉)
宮城(仙台、野蒜、矢本:母実家、他)
新潟(湯沢、小千谷)
富山(黒部、立山:義父母実家)
茨城(水戸、大洗)
栃木(那須、日光、鹿沼:義弟実家、栃木:亡父実家、他)
群馬(片品、水上、伊香保、他)
埼玉(川越市在住)
東京(板橋区勤務)
千葉(銚子、館山、鴨川、他)
神奈川(横浜、湘南、逗子、他)
山梨(上野原、甲府、山中湖、河口湖)
静岡(浜松、三島、伊豆、河津)
長野(佐久、軽井沢、善光寺)
滋賀(彦根)
京都(中心部)
大阪(中心部、甲子園、長居)
兵庫(神戸)
岡山(倉敷)
広島(尾道、しまなみ海道)
香川(丸亀、直島)

中国(北京)
韓国(ソウル)
タイ(バンコク)
シンガポール(マーライオン)
オーストラリア(シドニー)
アメリカ(NY、ボストン、ワシントン)
フランス(パリ、MM)

住んだことがある場所

東京都足立区(竹ノ塚団地):生まれ
埼玉県ふじみ野市(旧大井町):実家
東京都杉並区和泉(丸の内線方南町):一人暮らし
埼玉県川越市(東武東上線/JR川越駅・西武新宿線本川越駅):現在住

アルバイト歴

カフェ(ホールとキッチン、自家製ピザは生地から作る)
コンビニ(FamilyMart)
埼玉スポーツセンター(ボウリング場のスタッフ、玉詰まりを直しに行ったりする人)
シミズスポーツ(コンサート警備スタッフ、東京ドームでSPEEDやドリカムのコンサートなど観れた。またやりたい)
池袋ロフト(10Fインテリア、室内繊維売り場でラグマット担当、食器売り場で箸、お椀担当)
行政書士事務所(表参道と所沢)

職歴

株式会社大塚家具(2003~2007 4年半)
株式会社ジアス(2007~2014 7年半)
ハンコ印刷センター社員(2014~2019 5年)
行政書士(個人事業)(2017~
株式会社32代表取締役(2020~

何気なく手にとった誕生日占いに書いてあったこと

「世間と違っても超然としている人」
11月26日生まれの人は、何をするときでも他人とは違う独特な行動を見せます。
標準からはほど遠く、どこか超然としたところがあります。考え方は哲学的なおもむきがああり茫然としていますが、同時にきわめて実用的かつ現実的な面もあります。何かを達成すること、業績を残すことに意識が集中しているため、自分のクリエイティブな仕事や自己啓発を、世の中が与えてくれるどんな名誉や報酬よりも重んじています。
この日生まれの人のなかには、生きることそれ自体をクリエイティブな行動ととらえ、豊かな日々の経験を何より大切にしている人もいます。同時に、予知能力があるのでロマンチックな考えに舞い上がる心ももちあわせています。
現実的な面と想像的な面をもっていますが、そのうちどちらかを捨てることなど不可能です。2つの面をうまく融合させるべきでしょう。しかし、この2つの面は矛盾しているため、両者を結びつけるには、何年も努力しなければならないように思えます。しかし、それができれば、めざしていた目標は達成したも同然です。ここで大切なのはごく普通の生活を積み重ねることですが、慣れるまでは、2,3年ごとに実用的な活動と空想的な活動のあいだを行ったり来たりするかもしれません。ある程度の成功なら、どちらか一面だけで達成できるかもしれませんが、もう一つの潜在能力を無駄にしたという漠然とした不満が残るでしょう。
<中略>
このタイプは、自分の自分の個性をひけらかすのを好み、世間の有力者からの押しつけを苦痛に感じます。同時に、自分の本当にやりたいことが見つかり、人とは違う自分の性格をとけ込ませようと決めれば、感情的な関わりはさておき、世の中をうまく渡っていくこともできます。

ストレングスファインダー

上位5つの資質

  • 分析思考
  • 親密性
  • 最上志向
  • 慎重さ
  • 個別化

詳細は別ページにて↓

プロフィール(ストレングスファインダー)

目次ストレングスファインダー2.0上位5つの資質1,分析思考2,親密性3,最上志向4,慎重さ5,個別化まとめ ストレングスファインダー2.0 自己分析に有名な本があり…

私の履歴書

0歳(1980年・昭和55年11月26日)
出生。
玩具メーカーに勤めていた父(栃木県出身)、書道教室をしていた母(宮城県出身)の長男として東京都足立区にて生まれる。
今もまだ残っているが、竹ノ塚団地というところに住んでいた。竹ノ塚という地名となんとなく団地っぽい面影は今でも薄っすら覚えている。

3歳頃(1983年・昭和58年)
埼玉県ふじみ野市(当時は入間郡大井町)の一戸建て住宅に転居する。
??年後に新しい駅が近くにできるということは決まっていたそうだが、当時は鶴瀬駅からバスで20分くらいの畑だらけの場所だった。2階の窓から隣り近所の建築中の家をずっと見ていた記憶が今でも残っている。いわゆる建売り(売建て?)型の全部で7棟程の分譲地。同年代の家族が多く、いつも近所の誰かしらと外で遊んでいた。

4歳(1984年・昭和59年)
富士見市のすわ幼稚園にバスで登園する。
最寄りの幼稚園はみほの幼稚園というところで、近所の子供は皆そこの幼稚園に通っていたが、なぜか自分だけ他の園だった。当時は、なぜ自分だけ他の幼稚園なんだろうとは特別感じなかった。つかごし先生、かねこ先生が担任。バスの運転手は確か園長先生だった。

7歳(1987年・昭和62年)
大井町立(現ふじみ野私立)東原小学校へ入学。
一番最初の友達、かさはらよしとくんと親しく遊んだ。1、2年次の担任だった中川かずもり先生はとても優しく面白い先生。先生はトマトが嫌い。ある日のそうじの時間、先生はその日の給食で出たトマトを自分の教壇の棚に隠していたが、クラスの誰かにそれを見つけられてしまい、大あわて。というエピソードが衝撃(笑劇)だった。休み時間はみんなで一目散に外へ出て、フットベース。三角馬や一輪車にもはまって乗れるようになった。

9歳(1989年・平成元年)
小学校の野球チーム、大井少年ファイターズへ入団。
周りの友達がほぼ全員少年野球をやりはじめ、ご多分に漏れず自分も入団。当時の小学校の3~6年生が集まって、日曜日に学校の校庭で練習をしていた。同学年の友達のお父さんが3,4人、コーチをしてくれていて、そのコーチたちのワゴン車を毎回泥だらけにしながら、少し遠くまで練習試合などに連れて行ってもらった。
ちなみにレギュラーではなかった。補欠のセカンド。非力で(今もだが)金属バットをグリップの一番短いところを持ってなんとか振っていた。外野の頭を超える打球というのは、後にも先にも打った記憶がない。


10歳(1990年・平成2年)
栄光ゼミナールに通い始める。(鶴瀬駅にあった学習塾)
母が送迎してくれた時もあったが、母が仕事の時は、ひとりでバス停まで行きバスに乗って、鶴瀬駅まで20分くらいかけて通った。ある日バスのお金を握りしめていたらどこかへいってしまい、降りるときにお金がなく困っていたら、バスの運転手さんにいいよと言われてホッとしたことがあった。
塾の友達もたくさんできた。同じ小学校の子は塾のクラスには誰もいなかったので、友達はみんな他の小学校。年に一度の連合運動会で他校の塾の友達と会うのが、嬉しかった。
肝心の勉強は、あまり得意という感情はなかった。かと言って大嫌いというわけでもなく、なんとなく、流れのままに塾通いをしていた。
冬場の寒い時に、毎回水筒に入れて持って行っていたホットレモンティーのおいしさを知った。
野球をやっていたせいか、学校の運動は割と得意なほうで、毎回運動会ではリレーの選手に選ばれたり、持久走大会も校内2位という成績をとったこともあった。小柄で華奢だったので、身軽だったのだろう。

11歳(1991年・平成3年)
四谷大塚の日曜テストというものを受けはじめる。
毎週日曜日に、池袋の東京電子(専門学校)という場所まで塾のみんなと電車に乗ってテストを受けに行くようになる。(栄光ゼミナールの子はみんな受けていた)このころから毎回のように、順位と偏差値というものが塾の勉強に付きまとうようになる。自分は一番上のクラスではなく、その次くらいのクラスだった。一番上のクラスの野方君、星君、山浦君、、などは四谷大塚でも成績が上位のほうで、いわゆる御三家と呼ばれるような学校を志望校としていた。
少年野球と両立することが難しくなり、だんだんとウエイトが塾のほうに寄ってくる。その象徴的な出来事を今でも覚えているが、当時レギュラーではなかった私が珍しく試合に出て、多分相手のエラーか何かで私は一塁ベース上にいたが、なんとそこで母が塾のお迎えに。私はコーチから代走を命じられ、そのまま一塁ベース上を後にし、車に乗って塾へ向かうという何とも歯がゆい出来事だった。塾も楽しかったが、やはり周りの友達と違う行動をしている自分はあまり良くは思ってなかったとおもう。
小学校では、学級委員長をやったこともあった。多分他薦だったと思う。いや、その当時は割と積極的なところもあったので自分からやりたいと言ったのかもしれない。

12歳(1992年・平成4年)
中学受験をする。
雪が降っていたかもしれない。第一志望の学校(自分で決めたわけではないが)は急坂の上に校舎があり、雪が降ったら道が滑る(=落ちる)のではないかと本気で心配していた。4~5校くらい受けただろうか。結局受かったのは、当時中学校創立2年目の(入学しても3年生がいない)栄東中学校だけだった。宇都宮線の土呂駅からさらに20分歩く場所で、私の住んでいるところから1時間半もかかるところだったので、通えるかが心配だった。
このころには少年野球の思い出はすっかり自分の記憶からも無くなっており、結局小6の一番最後までは続けられなかったのだと思う。ただ、とても良いチームで、僕らの同級生の4番バッターでショートでピッチャーだった黒木君は、のちに埼玉県代表として夏の甲子園のグラウンドでその姿を目にした。(感動と興奮をありがとう。あと、甲子園の砂も。)

13歳(1993年・平成5年)
栄東中学校へ通う。(1時間半をかけ毎日電車通学)
最初のころは疲れ果てて帰ってきていたが、次第に心の余裕もでき、慣れていった。野球部に入ったが、自分も含め新入部員は10名程度で、先輩も合わせ20名程度のチームで、弱かった。試合で勝ったことは一度もなかった?のではないかと思う。ただ、また野球ができることは楽しかった。勉強は校内で真ん中くらいの成績で可もなく不可もなくといったところ。

14歳(1994年・平成6年)
ふじみ野駅ができる。(家から徒歩10分)
今までバスや送り迎えなど不便があったが、少し通学が楽になる。小川やタムケン、ケンゴ、関さん、アオヤギらといつも一緒に帰る。
ウォークマンで通学の行き帰りに音楽を聴くのが流行る。(このころはtrfとか)だいたいアイワかパナソニックのやつ。ソニーはやっぱりカッコイイ感じがあった。のちにショックウェーブも流行る。(自分は持っていなかった)

16歳(1996年・平成8年)
栄東高校へ進学。(附属中学からの内進)
野球部へ入ろうか少し悩んだが、朝練が自分には無理でソフトボール部に入る。(結果としては良かった)ちなみに附属の中学から高校野球部へ進んだのはたったの一人。その他大勢はソフト部に流れた(笑)
そのソフト部が楽しい。野球部とは違ったユルい感じが自分には合っていた。初心者で入ってきた部員もいたが、先輩も含め上下関係というのもそこまで厳しくなく、和気あいあいと楽しく活動できた。
友人コウキの影響で洋楽を聞き出す。最初はNOW(コンピ盤)とかよく買っていた。

17歳(1997年・平成9年)
ヒップホップにはまる。(またも友人の影響)
また、その頃からレコード(DJ)に興味が湧き、コロンビアのポータブルレコードプレーヤーというのを友人から売ってもらい、ミックステープとかを作り始める。(たしかNasとかクーリオとかギャングスターとか、あと宇多田ヒカルやMISIAなどもこの頃出てきた?)

18歳(1998年・平成10年)
推薦入学を狙いにいく。(中学受験以来の受験?と思いきや。)
ソフトボール部の先輩つながりで中央大学のソフト部の監督が見に来たこともあったが、結局その話は無しになり、日本大学経済学部へ推薦入学する事に決める。他のみんなが受験勉強に必死の中、自分は秋から暇になり、初めてアルバイトをする。(サティの中に入っていたエスポワールカフェというところでキッチンとホール係)

20歳(2000年・平成12年)
池袋ロフトでアルバイトを始める。(10Fインテリア売り場)
とても自分が成長できた場所の一つ。学生よりもフリーターが多く(年上)、そこには多種多様な生き方や個性があり、社会に出ると、こういう自分がまだまだ知らないこと、自分と違う人がたくさんいて面白いということ、仕事も各自に裁量があり、仕事の面白さというのをはじめて知った場所とも言える。
両親が池袋でハンコ屋を開業する。(のちに板橋との2店舗体制)

21歳(2001年・平成13年)
クラブでDJをする。
趣味で続けていたDJを、大学の友人らと一緒に新宿のOTO(今は渋谷)という小さなクラブで定期的にやらせてもらう。また一つ、違う世界を見れた。僕らのように趣味(遊び)ではなく、大人が仕事として取り組んでいる姿がみられたことは、良い経験となった。

22歳(2002年・平成14年)
あっという間に大学4年。
学生時代はロフトでバイト→レコード買う→ロフトでバイト→レコード…(以下略)でほぼ終わる。大学での本来の勉強やサークル活動、ゼミといったものにはほとんど関わりのないまま、過ぎてしまった。(今思えば非常に勿体ない4年間となってしまった。後悔先に立たずとはまさにこのこと。)どういう会社に就職したいかも、当時自分が楽しいと感じていたインテリアの販売という域を出ず、就職活動は、家具小売店、家具メーカー、ハウスメーカー、リフォーム会社などを中心に受ける。

23歳(2003年・平成15年)
株式会社大塚家具へ就職。(一応、第一志望であった。)
所沢で配送業務の補助を経験した後、新宿店に配属となり、インテリアの営業職として働く。

25歳(2005年・平成17年)
カーテン売り場への異動。
営業成績はそんなに良いほうでもなく、周りからの推薦もあり、配置転換でカーテン専門職に移る。既製品の家具とは違い、商品すべてが㎜単位のカスタムオーダーであり、それが私の性格的には合っていて、楽しくやりがいをもって働く。

26歳(2006年・平成18年)
杉並区方南町で一人暮らしを始める。
勤務先の新宿3丁目と丸の内線でつながっていたことと、東高円寺に友人が住んでいたことが場所の決め手。家具を揃えるのが楽しかったが、毎日ご飯をどうするか考えるのは面倒だった。親のありがたみを知った。
病気(パニック障害)を患う。
一時は外出できないほどに悪化し、会社も3か月間休養する。(しかし給与手当はしっかり貰っていた。サラリーマンとは何と守られていることか…)

27歳(2007年・平成19年)
株式会社ジアスへ転職する。
前職大塚家具での仕事は店内でのオーダーカーテンの販売がメインで、現場調査や施工は専門業者へ依頼していたが、次第に現場へ出たいと思うようになったことが理由。販売、縫製(加工)、施工を自社で一貫した体制を持つ会社で、さらに窓周りに特化した会社に身を置く。埼玉県の大宮、浦和、さらに東京都の立川市で勤務をする。

29歳(2009年・平成21年)
妻と結婚する。(大塚家具時代の同期)
当時は妻もカーテン売り場へ在籍しており、会社は違えど同じ業界、同じ商材を扱うというなかで、偶然同じお客様の相見積もりの相手同士になったこともあった(笑)。

30歳(2010年・平成22年)
毎日深夜まで仕事をする。
車通勤だったため、終電関係なし。休日出社することも多かったが、休みの日はとにかく寝ていた。体重が増えていく。健康診断で中性脂肪が異常値になる。

33歳(2013年・平成25年)
第一子(娘)が誕生する。
音楽が好きなこと、安寧に育ってほしいという想いから、音寧(おとね)と名付ける。
車を買う。(スバル・エクシーガ)

34歳(2014年・平成26年)
家を買う。
埼玉県川越市に、親と住めるほどの家を父と共有購入。(現住まい)
が、、1か月後
父が末期の胆管癌で余命2週間と宣告され、この世を去る。
おそらくホッとしたのだろう。孫も産まれ、老後の住処を得、70という齢で、まだまだこれから楽しいことがたくさんあっただろうに、、
その半年後
勤めていた会社を退職する。
その後、当時母一人で担っていた家業のハンコ印刷センターへ入職。
池袋の大原で、行政書士試験の講座へ週2回通い始める。(松井先生)

35歳(2015年・平成27年)
第二子(娘)が誕生する。
友達に囲まれる子に育ってほしい、長女(おとね)→おねーちゃん、次女(ともい)→いもーと 2人の関係性と絆を宝に生きてほしいとの願いから、友泉(ともい)と名付ける。
行政書士試験に合格する。(194点/300点※ボーダー180点)

36歳(2016年・平成28年)
母が倒れ、一時ICUに入る。
約1か月の入院期間を経て、快復する。
当時アルバイトさせてもらっていた行政書士事務所2社を退職する。

37歳(2017年・平成29年)
int(イント)行政書士事務所を板橋区で開業する。
名前の通り、ハンコ(印※いん)と一緒にサービスを提供するから、「いん」と「行政書士」なのである。(他にも意味があるがここでは省略)

40歳(2020年・令和2年)
株式会社32を設立する。
ハンコ印刷センターの法人化により、株式会社を設立。代表取締役へ就任。ちなみに妻も代表取締役。2人代表制。
社名の由来は、亡き父の名前が「青木三十一(みとかず)」であったこと。父の前会社を継ぐ想いがこめられている。

レッツ ゴー ふ あん は フフフ の フ050-710-77707※留守番電話になりましたら、メッセージをお願い致します。当方より折り返しご連絡致します。(Tel No,末尾5554より)

お問い合わせはこちら どうぞお気軽にご連絡くださいませ。